�  嵳�休百会記」といわれる会記があります。これには利休が催したと
   いわれる茶会の会記ですが、8月17日から翌年の閏正月24日までに
   およそ百近く(93会,95会,97会など)茶会をしております。
   しかしこれには何年に催したという事が書かれていません。
   (入っているものもありますが)しかし正月の所に「閏」という字が見えま
   すので、閏年でありました。利休が亡くなったのが天正19年この日が閏年、
   その前は天正15年です。
   さてこれからが問題です。私は最晩年の天正19年であると思いますが、
   その理由の一つと考えられるヒントが次の会記にあります。
   それは何でしょう?
   
    十月二十八日 朝    
          戸田民部殿
          牧兵太殿
          芝監物殿 
    四畳半
    四方釜        鮭のやきもの 納豆汁
    茶入尻ふくら     かうのもの(香の物) めし
    瀬戸水指       さんせう(山椒)
    もんさす水こほし   引て鯉のさしみ
    折ため         菓子    ふのやき
    一ぢゆう(一重)の花入   しいたけ

    ヒント⇒竹の花入が初めて使われたのは
     天正十八年七月九日の朝
       豊臣秀吉の家臣 和歌山城主 桑山修理大夫重晴
     「床ニ竹ノ切カケ」と出てくるのが最初。
    それ以後、茶人達が竹筒の花入を好んで使い始める。
    同年利休が伊豆の韮山の竹で「園城寺」の竹一重切の花入を作った。
    「園城寺」には利休が弟子の古田織部の宛てた、有名な「武蔵鐙の文」
    という書状が一緒に組み合わされている。
    日付は六月二十日( 武蔵野を転戦する古田織部から、竹筒の花入が
    出来たので利休に届ける旨の手紙が届いた事が書かれており、利休も
    「筒ふしぎの切出申候」と返答している。)
    竹筒花入の出現は、この「武蔵鐙の文」が最も古い資料であろうといわ
    れている。
   
   <答え>
    竹の花入れが使われている事です。
    それによって天正19年の閏年と考えられます。
  
�◆〕�休の会記のでてくる菓子に「豆腐のうば」という物があります。
   さてこれは何の事でしょうか?

   ヒント⇒「うば」といえば「姥」御婆さんのたとえです。豆腐の御婆さん?
   想像してみて下さい。召し上がったことがある筈です。

   <答え>
   「豆腐のうば」とは湯葉のこと 
   それにしても何ともフィットした名前ですね
�� 今度は「松屋会記」といわれる会記で行われた事
   です。
  
   天文十一年卯月七日 薩摩屋宗忻という方の所で
   催された茶会です。
   客は又五郎 久政 少清の三人
   料理は サケヤキ物  汁ナ     
        セリ  飯  菓子ハ不出候     
        カマホコ

   ここで「菓子ハ不出候」とありますのでこの日の茶会
   には菓子が出されませんでした。
   菓子を出すのを忘れたり、菓子屋さんが休みであった
   りという理由では有りません。
   ちゃんとした趣向です。
   さてその趣向を答えて下さい。

   ヒント⇒ハス(蓮)二、ヒシ(菱)三ツ、アリノミ(梨)、
        フトウ(葡萄)、サクロ(柘榴)、サヒ(?)、
        モヽ(桃)ハ二ツ

   <答え>
    何と床に菓子の絵が掛けられたそうです。
    一度お試し下さい。
�ぁ 屬△海筺廚箸いΣ杙劼�良く使われています。
   さてどのような菓子でしょうか?

   ヒント⇒「あこや」といえば「あこや貝」。「あこや貝」といえば真珠

   <答え>
    真珠を菓子にしたのではありません。
    「あこや」とは真珠のように、といってもそんなにちいさくはない
    のでしょうが、 小さく丸めた菓子ということです
�ァ〕�休が茶会に使った菓子はたくさんありますが、最も多くつかった菓子は
   何という名前だったでしょうか?

   ヒント⇒小麦粉をとかして鍋で焼き片面に味噌を塗り巻いて用いる菓子

   <答え>
   「ふの焼き」現在裏千家のミリエームで販売しています(ちなみに末富製)
   それとはちょっと違っていたようです。