クイズの答え<水無月〜下>



@   利休(千与四郎)が登場する最も古い記録は利休が何歳でしょうか?
    ヒント今でいう中学生です。
  <答え>
    14歳(ただし利休が亡くなったのを70歳として) 堺の念仏寺の築地塀
    修理の奉加帳「念仏差帳日記」(ねんぶつさちょうにっき) 「与四郎殿せ
    ん」とある。
    天文4年(1535)4月28日付、
    14歳で成人と同じ一貫文の喜捨(きしゃ)
    2年後、天文6年9月13日、「松屋会記」で有名な松屋久政を招いた。
    今でいうとなんと高校生!
   
 A 「炭の「ジョウ」を落とすと、炭が良くおきます」などという言葉を使います。
    さてこの「ジョウ」とはどういう字でしょう。そして意味は?  
  <答え>
    「尉」(じょう)
     尉(ジョウ)と姥(ウバ) 老翁と姥とが能の装束をつけ、熊手と箒で
     松の落葉を掻く姿。能「高砂」に基づく。
     「ジョウ」とは、炭火の白い灰になったもの
   
B  このような利休が催した会記があります。
     天正十年(一五八二) 十二月二十八日 朝会  
     堺の津田宗及と山上宗二の客
      床 かたつき 方盆二  
     炉 四寸 あられ釜 五徳二
      床 手水の間ニ 古渓の墨蹟カケテ

    この会記で当時としては非常に珍しいといえる事が行われています。
    何だか気が付きますか???  
  <答え>
     利休が古渓和尚の墨蹟を使っている事
     今知られる範囲では、一流の茶人の茶会では、床には宋元の墨蹟を
     掛けるのが習わしだった。利休自信がそれにかえて、在世中の禅僧
     である古渓宗陳の墨蹟を掛けたのがこの会記
    利休意外では在世中の墨蹟を掛けたのは
      弘治四年(一五五八)十月五日
      堺の禅通寺の慶蔵主の茶会  
      津田宗達が呼ばれて
      大徳寺住持 春林宗俶 永録七(一五六四)没 の墨蹟使用
     ただし、侘び数寄者の間では、行われていただろう
     (宋元の墨蹟が手に入らないので)
   
   
C  腰張りの張り方についての約束をご存知ですか?
    (流派により多少違いが有るかも知れません)
   <答え>
     広間、小間共 点前座は 白の和紙を  一段で   九寸
     小間、    客座は  湊紙(紺)を 二段で 一尺八寸
     広間、    客座は  白の和紙を  一段で   九寸
     
     左側から張り、紙の継ぎ目の重なりは三分程
     壁の保護や客への配慮の為に施す
   
D 「南方録 滅後」に出てくる「サラシ茶巾」(今でいうところの「洗い茶巾」)
    という話があります
    利休七哲の一人瀬田掃部(せた かもん)が利休に皿のような茶碗に
    銘を頼んだところ、 水海(みずうみ)という銘を付けてくれました。
    その時利休は茶杓をプレゼントしてくれたそうです。
    さていよいよ問題です。その茶杓の銘は何と付けてくれたのでしょうか?
      よーく考えてみて下さい。

   ≪ヒント≫ 
    瀬田掃部は秀吉に仕え近江の内に知行を与えられていました。
    だから水海とは 琵琶湖の事。
    茶杓は準備をする時に茶碗の上に渡して掛(架)けます
  
   <答え>
    琵琶湖を意味する茶碗「水海」の上に架ける茶杓なので瀬田の唐橋を
    意味した。
    そして所持者の名前である「瀬田」という銘をつけたという事です。